三国時代の中国は、その広大な国土を黄河と長江によって大きく南北3つに分けられます。「三国志」を読む、又は内容を知るにあたって、先ずその広大な国土のあらましを念頭に入れておく必要があります。
地図1.中国大陸
上記の画像は中国大陸上に各勢力の領土と各国の首都を示した地図になります。
雑とズレ、また長江と黄河の曲線が途中で切れてしまっていますが何とぞご容赦くださいませ!
先ず中国を南北に見ると、北を流れる黄河(別名を河水。全長5464km)と、南を流れる長江(別名を江水又は揚子江。全長6300km)の二大河川によって3分されています。黄河の北側を河北と言い、長江の南側を江南と言います。その河北と江南に挟まれる一帯を河南や江北と呼ばれています。
他に東西では、西は山岳地帯や高原・丘陵が広がり、対して東は平野部分に限られます。
曹操が手にした魏は、国土の北側、黄河を挟んだ肥沃な土地にあたります。次いで劉備が治めた蜀の地は、山に囲まれた中国の益州(西南)にあります。最後に孫権が手にした呉は、南の長江流域からベトナムに至る広大な部分(揚州)でその多くは未開発となっていました。
中原を制す中国には、「中原に鹿を追う」ということわざがあります。意味は天下争奪を表しており、中原とは黄河の中下流域の一帯(地図上の黒色の円枠)を指します。この一帯は、周の王都がこの中心に位置していたことから、中国ではこの中原を手中に治めれば天下を制すことができると考えられていました。
三国時代で、この中原を押さえたのが曹操です。後に諸葛亮も中原を目指し軍を発しますが、志半ばにしてついに倒れてしまいました。(*1 五丈原の戦い)
*1 五丈原の戦い・・・234年、三国時代の後半。諸葛亮と司馬懿との決戦。
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